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政治制度の改革が進められる一方で

政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ進んだ法制度や文化の輸入に努めた。また、越に渟足柵と磐舟柵を設けて、東北地方の蝦夷に備えた。

ただし、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることがそれを物語っている。翌大化5年(649年)左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが、政情は不安となり、この頃から大きな政治改革の動きが少なくなる。650年に年号が白雉と改められ、一般的にはこの改元をもって、大化の改新の終わりとされている。

孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、白雉4年(653年)に中大兄皇子が難波宮を引き払って飛鳥へ戻り、群臣もこれに従い、孝徳天皇は全く孤立して翌年に憤死する事件が起きている。皇太子の中大兄皇子は即位せず、皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。
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斉明天皇時代は阿倍比羅夫を東北地方へ派遣して蝦夷を討ち支配権を拡大させた。一方、政情不安は続き、658年に有間皇子が謀反を起こそうとしたとして処刑されている。

660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍に攻められて滅びた。661年、百済の遺臣の要請に応じて中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇と共に自ら筑紫へ赴くが、天皇はこの地で没する。662年、百済復興の遠征軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗して壊滅した。

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2009年11月26日 00:51に投稿されたエントリーのページです。

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