2009年06月19日

作曲家たちもまた、それらの知性の積み重ねと

作曲家たちもまた、それらの知性の積み重ねと進歩に対して自らの新しいメッセージを付加すべく新たな音楽を開拓し発信していくことで、それらの文化的あるいは経済的な支援や聴衆の期待に応えている。作曲を通しての知性への問題提起という行為によってそれが果たされると考えている者が多い。

また歴史的に見ればそうであるように、現代音楽も同時代の他の芸術の分野とも無縁ではなく、並行しながら動いていることも多い。近代音楽が印象派絵画に触発されたように、ジョン・ケージはロバート・ラウシェンバーグをはじめネオダダ、フルクサスの芸術家など多くの現代美術家に影響を与えた。フルクサスに所属した芸術家は音楽家や美術家、詩人など多数のジャンルにまたがり、たとえばビデオ・アートのナムジュン・パイクも当初は現代音楽家であった。ミニマル・ミュージックやミニマル・アートなど、ミニマリズムも音楽と美術で同時期に起こっている。1970年代以降のサウンド・アートやメディア・アートなどでも、両者の共同作業が行われることもある。
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他分野の音楽、およびそれらとの相互の影響 [編集]
今日、クラシック音楽の流れとしては見なされない他分野の音楽(例えばポップ、ジャズ、ロックなど、主に商業音楽と位置づけられている音楽分野)は、クラシック音楽とは分けて考える認識が一般的である(この定義・問題についての詳細は現代の音楽の項で扱うこととする)。

これら他分野の音楽への現代音楽の影響としては、1960年代後半頃以降、フリー・ジャズやコンテンポラリー・ジャズ、あるいはプログレッシブ・ロック、ノイズミュージックなどのジャンルに影響を与えた。

また先に述べた「マニエリスムの音楽」の一部には、こうした他分野の商業音楽の語法を取り入れた音楽もある。

2009年06月02日

テロリズムの定義に関しては

テロリズムの研究者の学術的な定義や各国政府の行政機関による定義付けをしているケースもあるが、その定義自体が政治的意味合いを含む為、様々な論争がある[4]。たとえばアメリカがときどき発表する「テロ組織」の指定要件の1つには「その組織の活動は、合衆国国民の安全あるいは合衆国の国家安全保障(国防、国際関係、経済的利害関係)を脅かすものでなければならない」という要件も入っている[5]。

日本の国内法においては「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で多数の人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊する行為」

テロリズムの語源は、フランス大革命末期のロベスピエールによる恐怖政治(regime de la Terreur 1793年6月 - 1794年7月)の「Terreur、テルール、恐怖」よりきている。権力者が対立する者を抹殺した場合もしくは、その影響(恐慌や追従)も含めてテロと呼ばれていた。 その後、その意味は、逆に反体制側の暴力的手段を指すように変化していった。これは権力側が武装抵抗をテロと呼んだ為である。その後は、反体制派の共産主義者・政権掌握したばかりの共産主義者によるテロを赤色テロ、アナーキスト側によるテロを黒色テロ、権力側によるテロを白色テロと呼称して区別する人々もいた。 レーニンは赤色テロと称して、意図的にテロを煽動した。一方トロツキーはテロリズムの本質は報復の連鎖であると批判し、大衆を動員した政治的行動(デモ、サボタージュ、ラッダイト等)に重点を置くべきとした。

不特定多数の個人間、あるいは社会に介在する「合意」に対して物理力やある種の表現をもって介入し、衝撃をあたえることで混乱や狼狽を誘い、結果として明示的なり暗示的なりに約束されてきた合意事項を破綻させることを目的とする。生命や財産の継続性は社会契約の前提であり、これを遮断することによって合意の継続を困難にする手法である。
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テロの計画者はおおむね独自の主義・主張や世界観、宗教観をもとに物理的介入に及ぶ傾向にあるものの、その大半は未熟で一貫していない倫理観や思想的背景にもとづいていることが多く、対話の否定、相互理解の拒絶、純粋暴力(≒死・破壊)の肯定など非社会的な嗜好に由来するものである。またテロの計画者は、悲運な人生や肉親・家族に関して悲嘆や絶望している人につけ込むことでテロの実行犯を仕立て上げる。 また、個人で行う「個人的テロリズム」と、宗教や政治、国家による「集団的テロリズム」に分けることもある。宗教や政治的背景によるテロリズムはほとんどの場合小さな集団(セクト)が独自に思想的結晶をもって暴発するものであり、あたかも濃厚な指揮命令系統に統率されている外形を見せながら多くの場合互いに連携や共助関係はもたない。国家や一定の政治権力を持つ集団による統率された集団的テロリズムは恐怖政治につながる事もある。スターリン主義体制やナチズムにおける大量テロル(大粛清)が恐怖政治の例である。恐怖による民衆支配は伝統的な側面があり、古くはスパルタにおけるクリュプテイアKrypteiaなどに例が見られる。50年頃のユダヤではローマ帝国からの独立をめざす熱心党がテロ行為をおこなった。

2009年04月29日

中世日本紀

中世日本紀(ちゅうせいにほんぎ)は、日本中世において、『日本書紀』等に基づきながらも主に本地垂迹説などに則り多様に解釈・再編成された神話群の総称、あるいはそのような解釈・再編成の動きを指す学術用語である。前者については、中世神話とも呼ばれる。

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中世日本紀では、記紀の神々が仏教の諸天諸仏と同一視されることが多く、神仏が同じ舞台で対等に渡り合ったりと中世における両部神道や山王神道などによる神仏習合思想を下敷きにした神話が語られている。また、そうでないものにあっても仏教の影響を受けた神話の解釈が見られる。主に歌学書、軍記物、寺社縁起などにおいて記述されているため、統一的・体系的な文献は存在せず、豊富なバリエーションが残されている。

2009年04月14日

韋 賢(い けん)

韋 賢(い けん、紀元前140年-紀元前61年)は、前漢の政治家。字は長孺。

魯国鄒の人。五代前の先祖韋孟は楚王に仕え、楚王戊を諌めたという。

韋賢は儀礼、尚書、詩経に通じ、「鄒魯の大儒」と呼ばれた。中央に徴用されて博士、給事中となり、昭帝に詩経を教授した。

光禄大夫、詹事と昇進し、大鴻臚に至った。昭帝が跡継ぎなく崩御したので、大将軍霍光らと共に宣帝を皇帝に擁立し、その功績で関内侯を賜った。後に長信少府となり、本始3年(紀元前71年)に前任者蔡義の死により丞相となり扶陽侯に封じられた。

地節3年(紀元前67年)に高齢を理由に丞相を引退することを申し出て許され、金百斤と屋敷を賜った。丞相が自ら引退するようになるのは彼が最初であった。 神爵元年(紀元前61年)に82歳で死亡。節侯と諡された。

子は四人おり、長男韋方山は早くに死に、次男韋弘は東海太守となり、三男韋舜は魯の父祖の眠る墳墓を守り出仕せず、四男韋玄成は丞相になった。漢において親子二代で丞相となったのは韋賢・韋玄成と周勃・周亜夫、曹操・曹丕の計3組だけである。

故郷鄒魯では、韋氏が経書を学んで栄えたことから、「子孫に金を遺すよりも経書を遺す方が良い」という諺が生まれたという。

大和撫子 きゃく サバンナ スキニー 情熱支援 ジャング ナリー ハンドカ ヒットパレ シリング ファンキー サーモス カペラ サラリー ニッケ フリフリ シュプネ ルサン レセプト パング テーション ジェロ スイス イライン おりあお パラシ バーゼル 夢街道 桜雨1押 ノート ワスレ どんしゅう プリン ジャスラック レア日本 永遠偉 白い街 パイロット ブイディ ストーブ チャウダ トカラ 管弦 アビブ スター スティック オモ モカ モンタナ ほうすう

2009年03月30日

朝立ち

政治 [編集]
朝立ち(早朝に駅前で行う街頭演説 聞いてもらう対象は通勤客)
金庫番(会計を担当する議員秘書)
禁足令(緊急に会議が開かれるかもしれないため国会議事堂・議員会館から外出するなという命令)
空中戦(街頭演説やマスメディアを活用した選挙戦)
地上戦(挨拶回りなどで選挙区の市民との縁故を活用した選挙戦)
現ナマ(賄賂)
実弾(現金 “―を撃つ”で買収工作の事)
田植え(選挙期間中以外に、地元の人々の面倒見で恩を売るなど、合法的に顔を売って選挙活動を行うこと)
寝る(野党が審議拒否の姿勢に入る)

銀行 [編集]
カルトン(現金・通帳・カード等を乗せる受け皿)
キュウフリ(給与振込)
ザイカン (財務省監査)
サツカン(札勘定)
ザンブ(残高不足)
ジャンプ (手形決済期限の延長)
ダイテ(代金取り立て手形)
ダイベン(代位弁済)
タメテ(為替手形)
ダンシン(団体信用生命保険)
フリテ(振替手形)
ホンカン (本店監査)
ヤクテ、ヤッテ(約束手形)
ユウテ(融通手形)
ヨウカン(要管理債権)
トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

証券 [編集]
板(売買の注文表)
指値(さしね。価格を指定すること)
ザラ場(寄り付きと引け以外の時間の取引。「ザラにある場」の意)
甘い(株価が軟調なこと)
しっかり(株価が堅調なこと)
仕手筋(意図的に株価を操作して売買する特定の個人・団体)
上場(証券取引所で株の売買を行えるようになること)
底(一番低い価格)例:底を打つ
手サイン(かつて立会場があったときに、注文を伝えた身振り手振りのこと)
天井(一番高い価格)
ナンピン買い(価格が下がったときに株を追加購入して平均購入単価を減らし、損益分岐点を下げること。ナンピンした株がさらに下落することも多く、「下手のナンピン、スカンピン」ともいう)
引け(売買立会いが終了すること。または立会時間中についた最後の値段のこと。一日2回あり、午前は「前引け」、午後は「大引け」)
火柱(ひばしら、特定の、もしくは全体の株価が急激に上がること 例:火柱高)
保振(ほふり、証券保管振替機構)
寄り付き(取引が始まること。またはその時についた値段のこと。一日2回あり、午前は「寄付き」、午後は「後場寄り」)
一部の企業については独自の俗称が存在する。(例:「マルロク」=松井証券(屋号から))
兜町(東京証券取引所)
北浜(大阪証券取引所)
伊勢町(名古屋証券取引所)
ウォール街(ニューヨーク証券取引所)
シティ(ロンドン証券取引所)

製造 [編集]
3S・4S・5S(整理・整頓・清掃で3S 清潔を加えて4S、4Sに躾を加えて5S)
KY・KYT(危険予知・危険予知訓練)
QC(品質管理)
赤チン(軽傷)
遊び手(片手操作のときに空いている手)
命札(操作禁止表示)
カンバン方式(工程間仕掛在庫削減方式)
ダンマリ(警報なしの機械障害)
チョコ停(短時間の機械障害による停止)
ドカ停(長時間の機械障害による停止)
ヒヤリ・ハット(労働災害発生要因。重なると事故に発展する)
みずすまし(工程間仕掛在庫流通管理)
連操(24時間連続操業)
ホウレンソウ(報告、連絡、相談)

2009年03月16日

唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真ゆかりの寺院。南都六宗の一つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を有する。

『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、本寺の寺名の由来としては、「唐僧である鑑真和上のための寺」というような意味合いであるとされている。

鑑真の渡日と戒律の伝来 [編集]
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それをもとにした淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。
リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

鑑真は仏教者に戒律を授ける導師「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは「規範」「きまり」といった意味で、仏教者が日常生活上守らなければならない事柄であり、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していた。天平5年(733年)、遣唐使とともに渡唐した留学僧の普照と栄叡(ようえい)は、日本に正式の戒壇を設立するため、しかるべき導師を招請するよう、朝廷からの命を受けていた。彼らが揚州(現・江蘇省)の高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年のことであった。鑑真は渡日を承諾するが、当時の航海は命がけで、鑑真は足掛け12年の間に5回も渡航に失敗、5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、それまで行動をともにしてきた栄叡を失い、自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航でようやく来日に成功するが、この時も国禁を犯し、日本の遣唐使船に便乗しての渡航であった。鑑真は当時すでに66歳になっていた。

天平勝宝5年(753年)12月、薩摩(琉球ともいう)に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸し、同年、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けた。日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺で過ごした後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。

伽藍の整備 [編集]
唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦のうち、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。

『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝(? - 815年)の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。金堂は8世紀後半の宝亀年間(770 - 780年)の建築と推定され、この推定通りとすれば鑑真の没後に建立されたものである。

伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安(ぶあん)の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛(かくじょう、1193年 - 1249年)によって復興された。

2009年02月26日

ギャラクシーエンジェル

はるか昔……突如襲った時空震(クロノクェイク)により、人類は宇宙への進出手段を喪った。

約200年後。惑星トランスバールの衛星軌道上に現れた「白き月」は、この惑星に住む人類に「恩恵(ギフト)」を授け、再び宇宙に向かう道を与えた。以後400年にわたり、トランスバールはその版図を広げ、128の惑星を治める「トランスバール皇国」へと発展していった。

トランスバール歴412年。突如現れた大艦隊は瞬く間に首都惑星トランスバールを陥し、皇王ジェラールら皇族を弑逆した。艦隊を率いていたのは、その5年前、ジェラールによって皇国から放逐されていた皇子エオニアだった。

そんな中、辺境駐留艦隊にあってクーデターの報を知った青年将校タクト・マイヤーズの前に、5機の戦闘機が出現した。「ムーンエンジェル隊」と名乗る彼女らは、白き月に滞在していたためエオニアの粛清を逃れた皇子シヴァを守るようにとの、かつての恩師のメッセージを、タクトの許に携えてきたのだった。タクトは、白き月よりもたらされる先史文明「EDEN」の技術遺産「ロストテクノロジー」の粋を集めて建造された宇宙戦闘機「紋章機」を操る5人の少女と共に、戦乱の嵐に立ち向かっていく。

エンジェル隊
原作系(ムーンエンジェル隊)では白き月を警護する近衛特殊部隊。「最強兵器を駆る美少女」という事で、トランスバールでは伝説的な扱い。白き月の警護が主な任務。
なお、エンジェル隊のメンバーの声を当てている新谷良子、田村ゆかり、沢城みゆき、山口眞弓、かないみか、後藤沙緒里(途中より参加)の声優のユニットも同じくエンジェル隊と呼んでいる。
アニメ版(ギャラクシーエンジェル隊)については、ギャラクシーエンジェルを参照。
トランスバール皇国
全128星系を統べる巨大銀河皇国。首都星は惑星トランスバール。廃皇子エオニアの反乱によって、当時の皇王を含め政治中枢にいた者がほとんど殺されてしまうが、反乱の終結後に復興。現在の統治者は女皇シヴァが勤めている。
紋章機
紋章機を参照。
ロストテクノロジー
EDENが生み出した科学技術。原作系では時空震以前のものを指す。ゲーム版ではあまり確認されていないが、アニメ版において多数確認されている。
そもそも、紋章機やエルシオールもロストテクノロジーの産物であり、未だにブラックボックスとなっている部分も多い。
ロストテクノロジー (ギャラクシーエンジェル)を参照。
エルシオール
紋章機#エルシオールを参照。
時空震(クロノ・クェイク)
約600年前にEDENやトランスバール星域の文明を衰退させた大災害。この災害によって長距離移動や長距離通信が不可能になったため、各星域が断絶されてしまった。実は人災であり、直接の原因はヴァル・ファスクが作り出したクロノ・クェイク・ボム。
白き月・黒き月
EDENによって生み出された対なす双子星。ヴァル・ファスクを打倒するべく作られた。
白き月は「あらゆる不確定要素を取り入れることで無限の可能性を生み出す」、黒き月は「不確定要素を徹底的に排除し、常に安定した戦力を生み出す」という異なる設計思想で建造された。ちなみに、不確定要素とは運用する人間の感情を指している。二つの月にはお互いを"敵"と認識し合い、争うことでお互いの技術を高めるという任務が与えられていた。そして、最終的には勝利した月の思想を基幹として融合し、究極の兵器が完成する予定であった。
しかし、時空震が発生したため、二つの月は互いに存在をロストしてしまう。そのため、白き月は本来の任務を放棄、文明(人類)の保護を目的として活動した。時空震発生から200年後に惑星トランスバールへと流れていき、「恩寵(ギフト)」と呼ばれるロストテクノロジーをもたらした。いつしか、白き月は世代交代などによって本来の目的が忘れ去られ、トランスバール皇国の象徴的存在となった。しかし、白き月の紋章機を仮想敵と考え、戦争の無い間でも「外敵」に備えた事から、本来の機能までは失われてはいない。
一方、黒き月は管理者の世代交代が無かったこともあり、その任務を続行しており、白き月を探し求めエオニア戦役を起こすことになるが、エルシオールのクロノ・ブレイク・キャノンによって大部分を破壊される。その後、黒き月のコア部分はヴァル・ファスクのネフューリアに回収され、皮肉にもヴァル・ファスクにその技術を使われる羽目になるが、管理者のノアはタクト達と合流し、白き月に身を寄せることになる。こうして、どちらにとっても意外な形で、白き月と黒き月の融合が成されることになった。
なお、白き月、黒き月双方とも、自力で星間航行する能力を持っており、クロノ・ドライブすら行うことが出来る。また、防御力も強固で、通常兵器では傷すらつけることが出来ない防御シールドを持っている。
ムーンエンジェル隊は、白き月の近衛特殊部隊であり、部隊名のムーンは白き月のことをさしている。
GA-007 決戦兵器
セレン ケース ルージュ データ スワップ スーパー オルグ マスイブ 碁の杯 ズッキーニ プルト ディレ ポーリア デーリー タイプ ドラゴン パスヒ バットレス ギムレ ピート トウヨ リッドカ コリー いちい パネル メタセ バンダ リファレ ブラーフ ドリティ かみいそ ひけつ ノクロス オブジェキ ヒットソ ピア ポール フルスケ ハネウェル バウチ ロスペクト レッサー アクセス ソンク ばいせん シーランド フリース しぶし レシピ ハイビ

EDEN(エデン)
主惑星はジュノー。トランスバールにおいて、ロストテクノロジーと呼ばれている技術を作り出した先史文明(星間ネットワーク)の呼称。長い間、時空震によって滅びたとされていたが、EDENから逃れて来たルシャーティたちにより現存が確認された。数百年にわたりヴァル・ファスクに制圧されていたが、トランスバール皇国軍によって解放されている。全銀河の情報を扱う「ライブラリ」と呼ばれる施設が存在する。
後の時代(ギャラクシーエンジェルII)では、こちらの宇宙そのものをさす言葉となった。
ヴァル・ファスク
EDENの敵とされる種族。ヴァル・ヴァロス星系にあるヴァル・ランダルを本星としている。外見上は人類と変わりないが、何の装置も使わずに自身の身体だけで何百もの艦隊を操り、普通の人間よりも寿命が遙かに長い。全身に入れ墨状の紋様があるのが特徴。600年前、時空震を引き起こして星間ネットワークを破壊、EDENを衰退させ、全ての星系を支配しようとした。
初登場は「Moonlit Lovers」だが、エオニア戦役の元となった黒き月の行動も、対ヴァル・ファスクのためだったことを考慮すると、全編を通じた敵役と言える。
人類を見下しており、対等の相手とは認めていない。基本的に仲間という考え方は無く、同族ですら利害が一致する間は協力する関係でしかない。まったく話が通じる相手ではないと思われていたが、それでも心を持つ者もいることと、解り合える可能性があることが「Eternal Lovers」で示された。
なお、「ヴァル・ファスク」は彼ら自身が自称する名称。

2009年02月10日

応天門の変/元慶の乱

応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。
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応天門が放火され、大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言で無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。

経過
大納言伴善男は左大臣源信と不仲であった。源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣の藤原良相がなり、自らは右大臣になることを望んでいたともされる。

864年に伴善男は源信に謀反の噂があると言い立てたが、これは取り上げられなかった。

866年4月28日(貞観8年閏3月10日)、応天門が放火炎上する事件が起こる。朝廷は大騒ぎとなり、盛んに加持祈祷を行った。ほどなく、伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発する。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏をのろって火をつけたものだとされた。

藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。

参議藤原基経がこれを父の太政大臣藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。

8月3日、備中権史生の大宅鷹取が応天門の放火の犯人は伴善男とその子伴中庸であると訴え出る。鷹取は応天門の前から善男と中庸、雑色の豊清の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出た。鷹取の子女が善男の従僕生江恒山に殺されたことを恨んでいたと言われる。(鷹取が子が善男の出納の子供と喧嘩して、その出納が鷹取の子を死ぬほど殴りつけたのを恨んでのことともされる。)鷹取は左検非違使に引き渡される。

天皇は勅を下して伴善男の取調べを命じた。伴善男、伴中庸、生江恒山、伴清縄らが捕らえられ厳しく尋問されるが(杖で打ち続けられる拷問を受けていた可能性もあり)、彼らは犯行を認めなかった。

9月22日、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に、またこれに連座した紀夏井は土佐国、伴河男は能登国、伴夏影は越後国、伴冬満は常陸国、紀春道は上総国、伴高吉は下総国、紀武城は日向国、伴春範は薩摩国に流された。また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。

この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。

元慶の乱(がんぎょうのらん)
元慶の乱(がんぎょうのらん)は平安時代に起きた夷俘(蝦夷)の反乱である。朝廷の苛政に対して出羽国の夷俘が蜂起して秋田城を襲った。官軍は苦戦して鎮圧は難航したが、藤原保則が寛政によって鎮撫して終息した。
東北地方は飢饉に襲われていた。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡した。夷俘は周辺に火を放った。出羽守藤原興世も逃亡してしまう。

4月、朝廷は下野国と上野国にそれぞれ1000ずつの徴兵を命じた。

5月、朝廷は藤原梶長を押領使に任じて陸奥国より騎兵1000、歩兵2000を派遣して鎮圧に向かわせた。出羽掾藤原宗行、文室有房、小野春泉の出羽兵2000もこれに合流する。6月、夷俘の軍勢が大挙して秋田城を襲い、官軍は大敗を喫して、藤原梶長も陸奥国へ逃げ帰ってしまう。城中の甲冑300領、米700石、衾(寝具)100条、馬1500匹が夷俘の有に帰した。反乱は拡大して秋田城下の12村(上津野、火内、榲淵、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡)が夷俘の支配に落ち、わずか3村(添河、覇別、助川)の俘囚だけが出羽国に属していた。

5月、朝廷は左中弁藤原保則を出羽権守に任じて討伐にあたらせることとした。保則は備中国、備前国の国司として善政をうたわれた人物であった。保則は小野春風の起用を願い、6月、春風は鎮守府将軍に任命される。陸奥介坂上好蔭(坂上田村麻呂の曾孫)とともに出羽国へ向かった。この時点で俘囚3人が陣営に来て、秋田河以北を「己地」となすことを請うた。

保則は文室有房、上野国押領使南淵秋郷に命じて上野国兵600人と俘囚300人をもって夷俘に備えさせた。これら軍事的措置をすませたうえで、朝廷の備蓄米を民に支給して懐柔にあたった。保則の寛大な施策の一環である。また、保則の手持ちの兵力が寡兵であるため常陸国、武蔵国の兵2000を動員する許可を朝廷に求めている。

8月、夷俘の集団が次々と秋田城下に来て降伏してきた。寛政の噂が広まり、夷俘の敵意が和らいだためである。保則は来降を許したが、元慶3年(879年)1月、朝廷は討伐の強行を命じてきた。これに対して保則は出羽国の現状を報告して、寛大な政策をおこなって苛政によって逃亡した夷俘の還住を促すことこそ上策であると意見した。朝廷はこの意見を容れて3月、征夷の軍を解いた。

保則は武力によらず寛政によって反乱の鎮撫に成功した。一方でこれは、朝廷の力が低下して坂上田村麻呂の時代のように武力によって夷俘を制圧できなくなっていたことも意味していた。夷俘は降伏したが朝廷による苛政をくつがえし、力を示したことで一定の成功を収めたと考えられる。

異説
元慶の乱は朝廷側の蝦夷に対する懐柔政策が功を奏して、蝦夷は降伏したとするが、これに異を唱える人もいる。

まず、広範囲の蝦夷をまとめて、自分たちの要求を朝廷側に文書にして提出するなど、反乱を指導した人物がいるはずであるが、この人物が朝廷側の多数の犠牲者(焼山での戦いだけで500人以上が死亡あるいは捕虜になったという)にもかかわらず彼らの名前が明確に記録されていないこと(一応首謀者とされる2人の「首」は蝦夷側から提出されている。しかし、これは朝廷側が独自に処分できなかったことを意味している。これだけの被害なら、アテルイのように必ず文書に残っているはずという主張もある)、また915年北東北に2000年来最大の自然災害である十和田湖火山の大噴火が起きるが、この噴火あるいはそれに続く広範囲の自然災害が全く文書で記述されていないこと。などから、この元慶の乱は事実上蝦夷側の要求が通り、雄物川以北は蝦夷側の支配する地区となり、朝廷が手を出せなくなってしまったのではないかとする人もいる。同時期に仙北郡で極めて大規模な城柵として使わたのにも関わらず、記録が全く残っていない払田柵跡にあった施設で中央から監視しに来た人を接待したのではないかとする説もある。いずれにせよ、全く記録に残っていない払田柵の存在は当時のこの地区の人が中央の管理とは別に比較的自由に行動できたことを示す。

元慶の乱が始まる直前に、秋田城の対北海道蝦夷の饗給の増大は、出羽国の財政を圧迫するまでに問題化していたという。また乱の収束後、元慶の乱時に国家側と対立した地域には、9世紀末から10世紀にかけて秋田十二林窯、青森五所川原窯などが相次いで出現した。これらは秋田城が独占していた対北海道蝦夷貿易がこの地区の新興階層の手に移行したことを示唆しているとする人もいる。十和田湖火山噴火に伴う洪水から高台に逃げ出した集落からは、専門に鉄製品を作っていた集落も発掘されており(大館市)蝦夷は鉄を朝廷側から得る必要も無かった。

玉造麻呂
北秋田市の胡桃舘遺跡から1967年発掘されていた木簡に「月料給出物名張」とされるものがあると2005年発表された。これによると、この木簡には「玉造麻呂」などの名前が記されており、それぞれに「米三合」などの数量が書かれていた。玉造は元慶の乱の時に、政府側についた蝦夷の名字であるため、この915年十和田火山の噴火によって埋没した遺跡との関係があるのではないかと指摘された。


2009年01月24日

いじめ(苛め、虐め)


逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚
いじめ(苛め、虐め)とは、相手の肉体的・心理的苦しみを快楽的に楽しむことを目的として行われる様々な行為。実効的に遂行された嗜虐的関与(内藤朝雄「いじめの社会論」)。多くの場合、閉鎖的な集団で、集団内部では認知されたまま、外部には隠されて継続的に行われる。単純な喧嘩や暴力とは区別される。それを実行すること、誰かにやらせること、それを傍観することによって承認することすべてがいじめと言える。行為者、行為集団によってそれがいじめだと自覚されている場合と自覚されていない場合、あるいは合理化、正当化されている場合とがあり、後者には罪悪感がなくむしろ正しいこと、相手のためになっていることを行っているという錯覚すらあることが特徴。また、サディズムとは他人を精神的又は肉体的苦痛を与えることによって性的快感を得ることなので、いじめとはあまり関連性はないが、例外もある。

最近は物を隠す(いたずらする)、交換日記で悪口を書くなどといった「心に対するいじめ」も注目されている。シカトなどは陰湿且つ水面下で行われることから、教師や周囲が気づかないうちに深刻な事態ということになりやすい。

日本に限らず、欧米でもいじめは深刻な問題になっている。英語の表記は、bullying。いじめによると見られる自殺も、アメリカでも増大化の一途で、いじめと自殺(suicide)を組み合わせた「bullycide」(いじめ自殺)という造語も流布している。

なお、現在の日本では単に「いじめ」といった場合、学校で子供が行なういじめを指すことが多いが、実際には大人の社会でもいじめに相当する現象は存在している。職場いじめを参照。また、ネット上のユーザによるネットいじめも存在する。

文部科学省は、2007年1月19日、児童・生徒の問題に関する調査で用いるいじめの定義を見直すことを決めた。従来のいじめの定義では「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」としていたが、見直し案では「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」とした。具体的ないじめの種類については「パソコン・携帯電話での中傷」「悪口」などが追加された。いじめの件数についても「発生件数」から「認知件数」に変更された。この定義によれば全国の小・中・高・特殊教育諸学校におけるいじめ認知件数は12万4898件にのぼる。[1]

また、教育再生会議の第一次報告に関連して、いじめを繰り返す児童・生徒に対する出席停止措置などの現在の法律で出来る事は教育委員会に通知するように、2007年1月22日、安倍晋三首相が伊吹文明文部科学相に指示した。

いじめの分類

いじめる側
いじめには、学校・職場などにおける個人レベルのもの、団体・企業内の抗争など多種多様な局面があり、一部は社会問題化している。いじめに至る原因は多様であり、原因別の細かな対処が要望される。

故意の場合。
常に自分の意思を抑圧されるような環境におかれている場合(心理的なストレスの大きい環境の場合)。(例:徹底されたあるいは過度の管理教育・偏差値主義・競争主義教育、職場、スポーツ、恋愛、嫁姑関係など)
→ 周囲の環境を「自分の意思に反する課題を強要する専制的な場」と否定的にとらえるのではなく、学業・仕事は必要と割り切り、「自分の将来・目標に対して最適な場であり、自分の意思に反する課題は、自分に必要なこの共同体に所属するために、パスしなければならない課題だ」と肯定的にとらえ直す。
自分の力を確認することで安心を得ている場合(もしくは自分の力を見せ付けて快感を得ている場合)。議論が人身攻撃・個人攻撃の方に逸れる時にも発生しやすい。(例:相手の上にいることを示す・自分の意思のみを通す・相手がいつも従うことを確認する)
→ 力を見せ付けることは自分の欲求を抑えられないということであり、つまりは、人間的に成熟していないことを周囲に示しているのにすぎないのだと説く。もしくは、長期的にみれば自分を孤立させる結果になることを説明する。また、職場であるならば、相手の気持ちを傷つけてまで支配関係を明確にすることは、業務の効率を落とす結果にしかならないことを理解させる。(例:パワーハラスメント)
未知のもの・自分と違うもの・他者に対する恐怖から生じる、偏見・憎しみ・差別。
→ 教育によって互いを知り、意見を聞く対話の場を作り、話し合いの上で、決断し、実行すること。(出典:国連アナン事務総長の世界寛容デーへのメッセージ)
職場において、リストラ策の一環として自分から辞めるように上司や人事部が誘導する場合。
→ 人員削減以外にもリストラの方法はあることを会社側に理解させる。労働組合などに働きかける。労働基準監督署に訴える。
楽しさからする場合。人間の欲求の一つ。楽しいからする、というあたりまえの状態。
本人に悪意のない場合。
人とのつきあい方が判らない場合、実現不可能な欲求への不適切な対処・不適切なストレスの緩和方法を行う傾向がある場合。(例:憂さ晴らしに苛めるなどの、不適切で屈折した方法で快感・満足感を得ようとするなど)
→ ソーシャル・スキルの習得。(例:判断力、行動力、コミュニケーション力、実現不可能な葛藤や欲求への適切な対処方法の習得(補償・昇華)、健全なストレス緩和法の習得(得意な学業・仕事での目標の達成による充足感、スポーツや趣味など))
いじめに加担していても主体的ではない場合。見て見ぬ振りをしている場合。(例:教師が児童生徒とグループになっていじめる場合)
→ 必要な法律知識を与える。自分もいじめの対象にされたくないという理由で被害者を放置した場合、ケースによっては犯罪になる可能性があることを知る(不作為による共同正犯・従犯)。
また、加害者および加害者に同調する者は、いじめは被害者の方が悪いのだと、自分達の行為を正当化し被害者に責任転嫁をすることが多く、同時に被害者への偏見を周囲に広めることもある。また、被害者が「自分にも責任がある」という視点を内面化すると、被害者がいじめに対処する気持ちを失わせ、自己を蔑視するようになり、自殺や自傷などの行為に走る場合も多い。いじめが長期化・悪質化すると、徐々に周囲が被害者を蔑視する事態も生じる。このように問題が固定化し複雑化すると被害者や周囲によるいじめへの対処は困難となる。

いじめられる側
誰でも被害者になりうる。いじめられる側が苛めによって泣いたり苦しまなければ苛める意味がなくなっていじめをやめる、という意見もあるが、勉強・恋愛など、ひとつしかない勝利者の座席を競いあう場合、いじめる側は勝利をつかむまでいじめを止めない。

被害者が加害者側が主張する「欠点」を是正・改善することでいじめの軽減・終焉に至る例もあるが、いじめの悪質化・長期化が進行していない場合である。悪質化と長期化が進行している場合、加害者や周囲にとって被害者へのいじめ・差別・蔑視が事実上当然のことと認識されているので、欠点の是正・改善に効果がなく、その場合は、転校・転職・転居なども有効な手段として考えられる。

下記の方法で距離をとったり、ストレスを上手に発散することも、有効な対処であるとされる。

苛める人間と同じ土俵で争うのではなく、自分が強者になれる新たな「土俵を作る」
自分の能力を生かせる新たな場を開拓する(例。家庭や職場の人間関係はやむを得ないので、趣味で油絵を始める、など)
また、被害者が児童・生徒である場合、必要以上に他人に依存せず自分で問題解決をする姿勢をある程度身に付けることも、教育上の観点から有益であるという意見もある。ただし、辛くなったらすぐに周りに相談することが大切である。「いじめ」は大変多くのパターンがあり、一概に言えることなど限られているからだ。こういった場合、自分よりも周りが力になってくれることがある。

周囲
いじめの防止において最も重要な存在は周囲であり、周囲がいじめの行方を左右するといっても過言ではない。なぜなら、苛められる人間は、学校や会社などの集団生活の場で一緒に円満にやっていくために、喧嘩によってその場から閉め出されるという状況を回避するために沈黙し、苛める側に対して有効な主張や抵抗を行うことができないことが多いからである。

いじめの周囲にある場合、特に苛められる側に入れられることを恐れて傍観者となることを選択し、いじめを止めさせることが出来ない場合にも責任が生じる可能性はある。将来を悲観した被害者が自殺に走るなどして刑事事件となった場合、事態を知りつつ放置した人間は、いじめをあおった人間同様、加害者と同罪とみなされることがある。 いじめは犯罪であり、周囲は苛める側に対していじめをやめるよう指導する法的責任がある。

周囲の動向により、被害者が孤立化が進行することが多い。加害者が意図的に被害者を孤立させる場合もあれば、そうでなくても周囲の保身や事なかれ主義による場合も多く、いじめの長期化の場合は、加害者及び周囲の被害者への偏見・蔑視による。被害者の孤立によっていじめ問題が複雑化し、解決が極めて困難となる(大平光代(前・大阪市助役)の著書「だから、あなたも生きぬいて」(講談社)にもこのような現象が記されている)。

周囲には、いじめがあると知った場合、強い意志をもって対処することが求められる。具体的には、冷静にいじめを分析し、有効な問題解決を得ることが求められる。

例1)苛める側がどうにもならない人物(聞く耳を持たない、自己修正機能に欠ける、など)である場合、クラス替え・席替え・転部・転勤・異動・転職・人間関係の整理など、穏便に両者の間に距離をおくことが有効な回答となる。

例2)苛められる側の成績が優秀なために苛める側の嫉妬感情を生み、いじめを深刻化させた場合は、(年功序列ではなく)適正な評価基準を導入することにより回答を得ることができる。

例3)体育で苛められても、国語の授業を通して、各人の意見や反論能力により、挽回の余地もある。

2009年01月17日

高天原の神々を中心とする神話がその大半を占め

現在日本神話と呼ばれる伝承は、そのほとんどが『古事記』『日本書紀』及び地方各国の「風土記」に見られる記述を元にしている。即ち高天原の神々を中心とする神話がその大半を占め、一方ではその出典となる文献は決して多くはない。

本来日本各地にはそれぞれの形で何らかの信仰や伝承があったと思われその代表として出雲が登場するが、ヤマト王権の支配が広がるにつれてそのいずれもが国津神(くにつかみ)または「奉ろわぬ神」という形に変えられて「高天原神話」の中に統合されるに至ったと考えられている。また、後世までヤマト王権などの日本の中央権力の支配を受けなかったアイヌや琉球には、それぞれ独自色の強い神話が存在する。
パノラ 暮し情報 ブーケ アカシア シーケン ブッサフマ ミストダ ユーロ ミリタ チャーミ 陽陽次 シャルテマ しゃる 淡き宵 プレス ウーハイ コラー オパールグ マイト モルフォ チュー エージ ソロ ブルカ ムスタ サイボー パクト けいらい トランス おおわひん シーラ ネクタ グアニリ モスキ アングル コロンボラ ボイルド しめじ アカンバ ダイナマイ テレメ 検索メンス テラス ドクダミ ルランナー モーリシャ プレスリ セルン ブレー さんじゅ

中世に入ると、『太平記』などの軍記物、歌学書やその注釈、寺社縁起などにおいて『日本書紀』に基づきながらその内容に大きな差異が認められる、いわゆる中世神話(中世日本紀)が発達した。中世神話のなかでは本地垂迹説に基づいて記紀の神々が仏教の尊格と同一視されたり、あるいは対等に渡り合っている。記紀には見られない神格やアイテムが登場したり、地方神話、民間伝承や芸能から取り込まれた要素が神話の中に混ざりこんでいることもある。記紀神話とは異なり最後まで正統的な文献が存在しなかったため、豊富なバリエーションが多く残されている。中世神話は、現在では主に国文学方面で研究が行なわれており、神話学などではあまり扱われていない。

近世になると、伊勢国出身の本居宣長が、古事記に対して本格的解明を目指し名著『古事記伝』を書き上げ、『日本書紀』優位の神話が一変して、『古事記』優位の神話が主体となり、現在にいたっている。

また、少数派ではあるものの、キリシタンや幕末の新興宗教の教説にも日本独自の神話がみられる。

以上を踏まえた上で、この記事においては『古事記』『日本書紀』などにより語られる「高天原神話」(記紀神話)に絞り、日本神話として解説を加えていくことにする。

なお、「高天原神話」に登場する主な神々はヤマト王権ひいては現在の天皇家の祖先に当たると記述されている。これは、ヤマト王権の拡大に伴い、各地方土着の神に対する崇敬を天皇に対するものに転化させ、初穂献上としての租税の徴収を容易にするためと推察されているが、そのため、時代により当時の権力者に都合の良い解釈が為されたり改変が加えられたりした経緯がある。例えば、記紀の編纂自体に同時代の天武・持統朝の影響や朝廷・藤原氏などの恣意が加わった可能性が指摘されている。東京裁判後、明治以降太平洋戦争以前の日本においては、国民に対し国家の正統性を喧伝するプロパガンダとして国家権力によっても利用されたとされている(皇国史観)。

現在は、風土、風俗などの民俗学、考古学に基づく研究などが主にされている。また日本神話の原形となったと思われる逸話や、日本神話と類似点を持つ神話はギリシャ神話など世界中に多数存在する。日本における古墳期~奈良期に掛けての国の勢力関係をも知る上での参考資料ともなっている。

その上でここでは、あくまでも神話として、或いは民俗学・考古学上の観点から、「高天原神話」について述べることにしたい。

あらすじ
この記事では、日本神話のあらすじを述べるにとどめ、各神話の詳細は、別記事に譲る。


世界の最初に高天原で、別天津神・神世七代という神々が生まれた。

これらの神々の最後に生まれてきたのが、イザナギ・イザナミである。

イザナギとイザナミ

イザナギ・イザナミは、葦原中国に降り、結婚して、大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していった。さらに、様々な神々を生み出していったが、火の神カグツチを出産した際に、イザナミは火傷で死んでしまい出雲と伯耆の境の比婆の山(現;島根県安来市)に埋葬された。イザナギはカグツチを殺し、イザナミをさがしに黄泉の国へと赴く。しかし、黄泉の国のイザナミは既に変わり果てた姿になっていた。これにおののいたイザナギは逃げた。イザナギは、黄泉のケガレを嫌って、禊をした。この時も、様々な神々が生まれた。左目を洗った時に生まれた神がアマテラス(日の神、高天原を支配)・右目を洗った時にツクヨミ(月の神、夜を支配)・鼻を洗った時にスサノオ(海原を支配)が成り、この三柱の神は三貴子と呼ばれ、イザナギによって世界の支配を命じられた。

アマテラスとスサノオスサノオは、イザナミのいる根の国へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。そして、アマテラスの治める高天原へと登っていく。アマテラスは、スサノオが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えて、スサノオを迎えた。スサノオは、アマテラスの疑いを解くために、各の身につけている物などで子(神)を産みその性別によりスサノオは身の潔白を証明した。これによりアマテラスはスサノオを許したが、スサノオが高天原で乱暴を働いたため、アマテラスは、天岩戸に隠れた。日の神であるアマテラスが隠れてしまったために、太陽が出なくなってしまい、神々は困った。そこで、計略でアマテラスを天岩戸から出した。スサノオは、下界に追放された。